The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

困難の中にある主の導き

ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。
それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」兄弟たちは、これを聞き入れた。
ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。
(創世記 37:26-28 - 新共同訳聖書)

主がなされることは完全なことなんですが、人間の視点から見たら何でこんなことをするんだろうと思うことが多くあります。人間の罪のためといわれるものでさえ、それを許すのは神様です。しかしながら、こう見ていると、困難の中にこそ、本当の主の導きがあるのではないかとも思えます。
ヨセフは、兄たちに殺される危機にありましたが、兄たちに芽生えた別な罪の心によって、命が助けられ、しかもその後のことに繋がるわけです。また、弟たちの罪をルベンは隠すために、雄山羊の血によって獣に殺されたようにしたのです。雄山羊の血は弟たちの罪を隠すものでしたが、ルベンはいったいどのように思っていたのでしょうか。本当に死んでしまったものとして、彼は本当に悲しみ、また後悔の念でいっぱいだったのではないでしょうか。ヨセフも、次にはどうなるか分からない身となったわけです。神様以外に誰に依り頼めますでしょうか。ヤコブは最愛の息子を失ったことをどうとらえたのでしょうか?
しかし、これは神様の壮大なる計画の一部だったわけです。うん十年過ぎた後にヨセフが一族郎党だけではなく、エジプト全土、ひいては交易を通じて近隣の全ての地域・民をも救い、統治する人間になるとはだれが予想できたでしょうか?いや、その預言を与えて下さったのは神様だったんですが、誰がそれを信じ得たでしょうか。ヨセフは信じていたと思いますが、どんな状態でそうなるかなど、全く想像だにできなかったのではないでしょうか。
私たちは、時には結果、時には過程を預言されるかもしれませんし、実際、終末のことなどはすべて聖書に預言されている通りです。しかし、詳細は告げ知らされていません。誰も分からないのです。困難や苦しみを多く通るかもしれません。しかし、その中にこそ、主の導きがあって、それを強く信じていく時に、本当にその預言が成るのだと確信がある時には、本当に主が働かれているのだと分かるのではと思いました。