The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

タダほど素晴らしいものはない!

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
(ローマ人への手紙 3:24 - 新共同訳聖書)

Googleで『ただより高いものはない』と検索すると、2,100,000件もヒットするんですね。英語で表現されるとすると、Benefit binds.やNothing costs so much as what is given us.辺りが普段使うのかはちょっと良くわからないですが、成句として検索するとそれぞれ300にも満たない数しか検索されない…ってことは使われてないんですねスイマセンorz
日本人は何か、ただで貰うものに対して変に後ろめたい感情があるのかもしれないですね。詰まる所、ただで貰ったらお礼とかそういうのを考えるわけで、そっちの方がむしろコストが掛かるという考え方かもしれません。でも、永遠の命を有償で買うとなったらどれ程でしょうか?自分の罪の赦しを有償で…?世の中のお金全部あったとしても足りないと思います。そんなものが、イエス様を信じることで『タダ』となること。これほど素晴らしいものはないんじゃないでしょうか?
当然、Benefit binds.というか、イエス様を信じることで『タダ』となったものを受け取った後には、当然何らかのことに拘束されるということを考えるかもしれません。それは正しいですが、『罪の奴隷』から『神様の奴隷』になることを意味しています。自分は自由だと思っていた以前の状態も、結局罪から逃れることのできない拘束状態にあったわけですから、要はどっちを自由と考えるかです。
この世の中を造った当事者である神様は、律法というのを置いて、何が罪なのか、何が義なのかというのを定義しましたが、神様の定義によると結局誰一人として義とされず、罪の中にあるとしかされなかったわけです。そして、罪の直中にある人間は、神様とは離れて過ごしているわけです。そこには大きい隔たりがあり、人間の努力も財も地位も何もその隔たりを越えていくことが出来ないのです。
それが、いきなりタダでその隔たりを越えて神様の所に行けるようになったとすれば…どう思うでしょうか。隔たりに掛かっている橋を見て、橋前にいる人に『イエス様がとりなして下さったから、イエス様によって私は来ましたと神様に話してください』と、言われた時に、その先が見えないかもしれない橋を渡るとしたときに、タダで渡れると喜んで行くか、怪しんで渡ろうとしないか…。神様を信じない人々は、『今の罪の奴隷生活に満足してるし、この橋がどこにつながってるかもわからない。あまつさえ通行料も払わないで行けるところなんてどんな拘束がまってるか分からないから行かない』と言っているのと等しいのかもしれません。
でも、実際はタダほど素晴らしいものはないのです。神様から来る拘束とはどんなものなのか。すべて神様が愛と恵みとを持って与えてくださるものです。ダメなものはダメと当然お叱りも受ける時もありますが、それも全て私たちのためです。神様のところでは平和に過ごす知恵を与えられますが、罪の奴隷のままでは平和のためと言って戦争が起き、貧しい人のためと言って貪りが起きるわけです。そのことに歯止めすら掛からないわけです。
タダで私自身も受けたわけです。そして素晴らしいものでした。是非、周りの人とそれを共有したいと思っています。