The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

神様が見に来る時

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
(創世記 3:8-13 - 新共同訳聖書)

創世記3:1-24は、アダムとエバがどうしてエデンの園を去らなければいけなくなったかが書いている有名な節です。エバが食べることを禁止されている『善悪を知る実』を蛇に唆されて食べ、アダムもエバに勧められ食べた…というところですが、実に誘惑とは目から来るもので、6節でも書いてあるとおり、むしろ蛇から聞いたことよりは木の実自身が唆していたと書いている通り、エバが食べてみたいと誘惑にかられていたのだと思います。
そのあと、禁忌を犯してしまったアダムとエバですが、裸であることに気づいて植物で腰巻を作ります。そして、神様がやってくるわけです。
アダムとエバはこの禁忌を破った後に神様が来たと思った時、隠れました。「恐ろしくなる」のと「裸」なのはなんかしっくりこないですね。裸だと分かったのは、善悪の実を食べたからなんですが、神様が恐ろしく感じるのは裸だからではなく、善悪の実を食べたからではないでしょうか。神様がダメと言って、「あなたは死んでしまう」とまで言われたものを食べたわけですから…。
そして、アダムは隠れた理由を「裸」としました。当然、神様も怪しまれるわけです。そして、とうとう、そのことが明るみにでると、アダムは「女が与えたから食べた」。エバも「蛇がだました」とこれまた自分を正当化しようとするわけです。
でも、こうして見ると、クリスチャンである自分自身の生活も、「あれ…、普段の自分じゃないか…」と思ってしまいます。別に悪いと思っていないところもあるかもしれませんが、悪いことだと指摘され、自分もそれが悪いと分かっていたところで、素直にごめんなさいと言えるだろうか。しかも、『死んでしまう』とまで言われているものに対して…。
神様が、アダムとエバがその時素直にごめんなさいと言ったところで、エデンからでなければいけなかっただろうとは思います。しかし、普段の生活でも、ふと頭によぎる警告があって、それに対して忠実に行けるかどうかは、このアダムとエバのこのときと同じではないでしょうか。それが罪だから死になさいとか言われたら…。
そう考えると、その時に、『神様ごめんなさい』とすぐに出られるには、やはり『罪が赦されている』ということがかなり大きいのでは…とも思います。イエス様の血によって先に罪の所から救われたわけです。間違い、不信仰があっても、神様が叱り、矯正はするけれども罪に問われることはなくなりました。『神様ごめんなさい』と言っていい状態になったわけですから、本当に感謝と、また昨日の不信仰を『ごめんなさい』と悔い改めを持ちたいと思います。