The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

私ではなく神様が

そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。
かつてファラオが僕どもについて憤られて、侍従長の家にある牢獄にわたしと料理役の長を入れられたとき、
同じ夜に、わたしたちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。
そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、わたしたちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。
そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、わたしは元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。」
(創世記 41:9-13)
ファラオはヨセフに言った。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」
ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」
(創世記 41:15-16)

世の中には名誉や地位によって、その立ち位置や役割が変わったりします。そして、人間は出来るだけ上に行こうと目指します。そういった野心も大事なんですが(というか、最近は野心を持たない学生が多い気もする)、しかしながらこういった名誉や地位を与え、自分の役割を決定される方が誰かというのも、知っている必要があると思います。
任命権者は自分よりも上の立場の人と思うことが多いですが、実際にその機会を与え、その時に良く出来る力を与えてくださるのはほかでもない神様です。自分の能力ではなくて、神様の御力によることですから、本当に『私ではなく、神様が』と思います。
ヨセフが夢を解読できる能力を授かったのは当然ながら神様の御力なんですが、それをそのまま額面通り受けることができるのがヨセフの素晴らしいところではないかと思います。売られた時も、侍従長の奴隷となった時も、また牢に入れられた時も、辛い時も苦しい時も、全て額面通り受け入れて、神様により頼んでいたのではないかと思います。苦しいことをただ自分一人で我慢していたわけではないし、何よりも神様が共に居てくださったというのは、ヨセフにとってはそういうことなんではないかと思います。
そんな中で、神様はまたとない機会を用意してくださいました。夢占いによってその地位を受けたというのは、敬虔なクリスチャン程眉唾ものかもしれません(占いを避けるとかいろいろとありますが)。しかし、こう示されたのはほかでもない神様です。それは、ヤコブの子孫が、飢饉を乗り越えて、大いなる民族になるための準備のための計画であったかもしれませんし、また、局所的に見ても兄弟たちがこれによってある程度纏まることを期待した計画なのかも知れません。主の御心は測り知れませんが、しかしながら主の御心を信じて、いつかまた家族に出会えると常に励ましを与えられていたのはヨセフだったのではないかと思います。
自分たちは何かした時に、自分の功績と受け取ってしまうことが多くあります。それはそれでいいのかもしれませんが、神様が与えて下さった恵みを神様に帰すことが重要ではないかと思います。栄光を神様に帰す方法は多くあります。それを用いて伝道すること、神様から頂いたと公言すること、得られた財を神様の御用のために献金すること…。一つ一つが主なる神様のためであり、私たちにとってはイエス様の名によってすることではないかと思いました。