The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

支払われた対価

知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
(ペテロの手紙1 1:18-19 - 新共同訳聖書)

クリスチャンは、『罪の支配(隷属)から神様によって贖われた(買い戻された)ので、救われた』ということを信じます。以前は『罪による支配』の状態だったことから、解放されたことを喜ぶわけです。この罪の支配というのが、先祖伝来の空しい生活というものですが、人によって空しさを感じる部分が違います。また、特に罪の中に隷属している状況では神様と交わりを全くもてないということです。そして、空しくない生活というのが、神様との交わりと、人間との交わりの間で互いに愛を持って生活することに他ならないわけです。
贖われる、つまり、買い戻されるというためには、対価が必要ですが、その対価とは何だったのでしょうか。
多くの宗教、また、多くの人の考え方では、天国に行くのに『努力が要る』とか、『良いことをする』とか、『聖人になる』とか、または『○○の宗教を信仰する』とか考えるかもしれません。また、天国なんて行かなくてもいいよという理由の中には、『お金の方が大事』とか、『権力・名声の方が大事』とか、『今の生活が一番いい』とかあると思います。
自分もこれらのことはわかります。むしろ、今なぜこうしてイエス様を主とするようになったかの方が、奇跡であるかもしれません。
しかしながら、自分が奴隷であったときに、また、自分が死ぬ時に、これらのことがいえるでしょうか。『○○の宗教を信仰する』というのは置いといて、他のことは、努力しようがいいことをしようが、お金だろうが、権力が(奴隷の中で)いくらあろうが、所詮奴隷は奴隷のまま。自分は何もできないものであることには変わりないと思います。また、『○○の宗教を信仰する』という点では、その宗教の神様に当たる方が、そこから救い出してくださる方なのかというところです。例えれば、仏教なんかは、ああすれば救われる、こうすれば救われるという世界。奴隷を買う対価を払わないで、外からどう弁明すればいいかだけを伝えるわけです。イスラム教はちょっと難しいですね。あなたは罪があるかどうかわからないから、とにかく道具とかはあげるから頑張りなさい見たいな感じでしょうか。奴隷として捉えられている(彼らはそう思っていない)のに、どうやって脱獄するかというお話になってしまっているのかもしれません。
キリスト教、もとい、イエス様を信じるということは、自分たちではなく、神様が、対抗する組織(罪という相手)に対して、対価を出して自分たちを買い戻して下さったわけです。しかも、その対価というのが、自分の一人息子である、罪のない、イエス様の血であるということです。罪のない方が、罪のある方のために身代わりとなって死んでくださったから、今こうして正式に神様の方へと迎え入れて貰えているわけです。かつ、イエス様自身も復活されたということで、ますます自分が罪に対して死に、霊において『生かされている』のではないでしょうか。
そして、読んでいて気付いたのが、この対価は、信じる全ての人に…というよりは、本当に信じていても信じていなくても、全員のために支払われたということです。『イエス様によって贖われた!』という知らせを聞いて、喜んで牢屋を飛び出すか、いぶかしんで未だ牢屋の中に閉じこもっているか。皆さんはどちらでしょうか?
なかなか自分は、喜んで牢屋を飛び出したものの、昔の古い生活を捨てきれなくて、言ってみれば神様の食卓の前で手づかみで食事してしまう見たいな状態ですが…。罪から解放され、神様のものとなって、少しずつ変えられることを望みながら生活したいです。