The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

主が共におられる

主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。
主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、
ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。
(創世記 39:2-4 - 新共同訳聖書)

しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、
監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。
監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。
(創世記 39:21-23 - 新共同訳聖書)

主が共におられるというのはどういうことなのでしょうか。私自身、クリスチャンとして、常に主と共に居たいとは願っていますが、主が共におられる時に『人間的に見て』すべてがうまくいくかというとそういうわけではないような気がします。
しかしながら、人間的にみた『境遇』こそ上手くいかなくても、それぞれの境遇に置いての活動、信頼などは揺るぐことなく確かに『上手く導かれている』ものだとも思います。このヨセフは、兄弟たちの姦計によって売られ、しかしエジプトの主人の下で成長し、主人の妻の姦計によって牢に入れられ、しかし監守長の目に止まり監獄の中にあっても非常に良く導かれていたと思います。
世の中での不満ってどういう状態なのかというと、不満ですから何かに満たされていないということですよね。自分がやりたいこと、自分が望んでいることが全く満たされていない。だから、フラストレーションが溜まる。ストレスは本当に人格を破壊するものです。普段温厚な人にも、ストレスをかけ続ければいつの間にか怒りっぽくなるし、有名な拷問としては、額の上に水滴を落とすというストレスをかけ続けると、人格が崩壊し、(直接的には睡眠障害で)狂うことも知られています。
主と共に居るというのは、そういった点で今後のことについて満たされている状態なのではないでしょうか。満たされているから、どんな境遇であっても十分に働き、十分に役割を果たすことができます。ヨセフに不満があるかどうかは微妙なところですが、少なくとも何かあった時にはヨセフは主に聞き、主に頼ることができます。そんな状態を、主を信じていないだろうエジプトの主人も、監守長も見てとれたわけです。
こう見ると、自分の足りないなぁと思うところは、主と常に共に居るかというところだと思います。ノンクリスチャンであっても、あぁ、この人は主と共に居るんだと分かることができるわけです。それほど、主との交わりが深い時には、主との交わりが他の人に見えるわけです。主が目に見えなくても、その人に信仰がなかったとしても、この私が、主と交わりを持って、主に満たされているというのは紛れもない事実となるだろうと思うからです。
様々な伝道の方法があると思いますが・・・やっぱりまずは自分自身が満たされ、主とともにいる状態に居ないとだめだなぁと思いました。