The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

ねぇねぇ、見て見て!

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
(マタイ 6:1-6 - 新共同訳聖書)

見てもらって賞賛を受けるというのは確かに素晴らしいことなんでしょうが、特に信仰に関わる所でこれをすることを主は諫めております。
今日疑問に思ったのは、ここで出てくる偽善者さんたちがどのような人々なのかということ、また、何故そこまで隠さなければいけないのかということです。なぜなのでしょうか?
まず、マタイによる福音書5章〜7章は、山上の説教と呼ばれる箇所で、ガリラヤ中(ガリラヤ≒パレスチナだそうですが)を伝道して回った時に、各所で癒しの御業を行い、その評判がガリラヤをはみ出てシリア中にまで広がった結果、人がたくさん押し寄せたということなので、ガリラヤ湖畔の小高い丘みたいな山(Google Earthで見ると、この辺一帯は低い山でぼこぼこしてる)でこのような訓戒を行ったそうです。
そんな中、偽善者偽善者と言われてしまう対象の人が居たみたいですが、偽善者と罵られてる人々はどのような人たちだっただろうかと聖書を読んで行ってみますと、

  • 会堂や街角で人の目につくように善行をする
  • 善行をしたことを他の人に言いふらす(ここは隠喩かな?ラッパを吹きならす)
  • 祈る時もわざわざ人に見てもらうために会堂や大通の角に立って祈る

という人たちだそうです。ちょうどこのブログのようですね!(マテ
実際には、当時のユダヤ教、最大派閥であったファリサイ派の人たちや、律法学者と言われる人々が、『自分は神様の前に罪を犯していない人間だ!」と言うのをアピールしようとこのようにしていたようです。
なんとなしにですが、彼らがどっち側を向いているかがわかりますね…神様の方ではなくて人間の方を向いて行動しているように自分は見えます。
聖書中では何回も何回もイエス様が彼らに苦言を呈する場面が出てくるだけではなく、まぁ、つまるところ逆切れで十字架につけられる状態にまで発展するわけですが…(あくまで神様の計画であって、それはそれなんですが、人間目からすれば逆切れに近いものがあるような…)。
で、問題はなぜここまで善行や祈りを隠さなければいけないのかということなんですが、理由がちゃんと4節や6節に書いてありますね。「父が報いてくださる」ためなんですね。
つまり、公で堂々と「人に向かって」する場合、賞賛を貰ったりもしくは訓戒を貰ったりするわけですが、これらは人から報いが来るわけです。そうではなくて、隠れたところで、誰にも知られずに行うことは、人からの賞賛は得られないですが、得られるのは父なる神様からの報いだということです。どっちがいいか?神様からの報酬は永遠の命だということを知っていれば…どうでしょうか?
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマ 6:23 - 新共同訳聖書)
善行についても同じです。しかし、隠れたところでしかやっちゃいけないと言う訳でもないと思います。一番重要なのは、「見てもらおうとしない」ことなのではないでしょうか。お祈りは勿論のこと、善行についても、どんなことについても、もちろんその人のために奉仕する心と、もっと必要なのは『神様に向かう心』なのではないでしょうか?
人目につくところ『だけ』ではなく、むしろ人目につこうがつかなかろうが祈りと善い行いをもって、神様に向かう生活をしようとすれば、必然的に『隠れた祈り』や『隠れた善行』が多くなるのでは…と思います。

かのマザー・テレサ女史が、表面に出てきている公の祈りや公の善行によって、人からも賞賛を受けるように主が恵まれましたが、彼女がしてきた隠れた祈りや隠れた善行の多さは測り知ることができないのではないでしょうか。しかも、人からの賞賛に全く目もくれず、ただひたすら主と共に歩まれたことを見ると、本当にそれこそが主から来る愛なんだなぁと思います。
今日は、どれだけ自分が人目のつくところで良いことをやろうとしているか、また、隠れた祈りについて良く考えて、作業が忙しくても抜け出して祈りの時間を持ちたいです。