The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

私に対して沈黙しないでください (詩篇28:1-3)

主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。
嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます。
神に逆らう者、悪を行う者と共に/わたしを引いて行かないでください。彼らは仲間に向かって平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。
(詩篇 28:1-3)

私に対して沈黙しないでください

主が私たちに対して、沈黙されるとどうなるのでしょうか。
私達には罪に対する救いが無くなることです。
私たちがどれだけ善い行いをしようが、どれだけ修行僧の様に、修道女の様に、清い生活を送ろうが、何一つ罪からの救いを得ることが出来ないようになります。
罪と言われているようなことを好んで行う人、神様から離れて、盗みや殺しをしながら自分の富を蓄える人の益が高く、この世の愉しみすらも謹んで主に向かおうとしている人や、貧しい中でも心から主に仕えようとしている人が本当に惨めな状態になります。

しかし、主はそうされないことを言われます。必ず、主はその信仰と信仰による行いに対して報いてくださいます。主は、来る日には沈黙されず、厳然と裁かれます。

他の人たちもこれが他人事だと、自分はキリスト教を信じていないから関係ないなどと思うなかれ!自分の心の中は本当に汚れていて、一つも自分自身で制動が効かないものだと認識しないといけないと思います。
それの何が悪いのかとか思うかもしれませんが、『場に流される事』は決して良い事ではないです。主が与えられたものとして感謝して頂くことも私たちには自由ですが、主が居ない所で流されて居る事は、主の前に本当に罪である事です。それがたとえ仕事であれ、読書であれ、何であれ。

主の居ない平和は、結局罪に行くための『運命共同体』でしかないのだと思います。勿論、意図して混乱を引き起こす必要は無いでしょうが、主の平安が真の平安であることを覚えて、主の中で、御言葉の中で居ることが出来るように、周りの人にも御言葉を話したいと思います。