The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

主の臨在

Devotionをここに書くのも久しぶりですね。家でのWebが出来なかったので、中々こちらに書き込むことが出来ませんでした。

モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。
お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」
出エジプト記 33:12-13 - 新共同訳聖書)

なんか、傍目で見てみると、物凄い「自分勝手」な頼みごとに見えますが、実に私達が求める道と言うものも、こういうことなのではないかと思います。
私達クリスチャンは・・・クリスチャンでなくとも、聖書を読む人は・・・聖書に何かしらの問題解決のための事項があって、それを望むから読むわけです。特に聖書が示しているのは、「私達の罪」と、「罪の赦し」について書いてあって、与えられる道の最終点は「天国での交わり」と「永遠の命」であるわけです。つまり、スタートとゴールが書いてあって、イエス様はその「道」であるわけなんですが、さぁ、イエス様は道ですがその道はどこにあるんでしょうか。
実に、私達はその道を、日々の祈りの中で、また、その時々で主を見上げることで、その道程を教えていただくことになるのではないでしょうか。これは、主と共に歩んでいなければ出来ないことだと思います。だから、モーセが言ったのは、確かにここではカナン地方への道を差していたと思いますが、同時に

主がモーセに、「イスラエルの人々に告げなさい。『あなたたちはかたくなな民である。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない。直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしはあなたをどのようにするか考えよう』」と言われたので、(出エジプト記 33:5)

とされたことから、モーセ自身の信仰の道程が見えなくなっていたのではないかと思います。だから、モーセが主に、「あなたの道を見せてください!あなたが共に上ってください!」と、懇願したのではないかと思います。
自分自身が、そのことについて懇願しているでしょうか・・・今日はこれについてよく瞑想しながら、お祈りしたいと思います。