The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

Rom. 9:15-16 | 神様の憐れみ

神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
(ローマ人への手紙 9:15-16)

私自身、毎日何をしよう、どのような仕事をして、どのように努力をして、それで自分がもっと良くなろう、としますが、果たしてそれが本当に自分の力ですることなのかと言うと実は双でないように思えます。
実際、私自身が努力している部分は本当に小さく、私自身が出来る範囲は自分の手の届く範囲、それも今手を伸ばしている場所くらいしか出来ないものです。
それが出来るようになるには、自分が手を伸ばしたり、努力したりして範囲を広げるよりは、それが与えられる方がどれだけ多いのかを考えます。

神様が私に救いを与えてくださるのは、私が何をしたから、何を良くしようとしたからではないです。神様を信じるから救いが与えられるのではありません。“神様がもう救いを下さった”ので、先に神様の憐れみと恵みがあります。その救いが本当であることを私が信じて従うから、神様はその通りにされます。
もし、それを信じなかったらどうなるか、自分が救われていないと、努力するか、若しくは救いとかそういうのは無い、そのまま自分が土となるんだ、見たいに行くなら、それもその通りになると思います。詰まり、それが永遠に神様から『自分から』離れることです。

肩肘張るのをやめようと思います。もう救いを下さったのに、今も自分が一生懸命『信じないで』やっているのを神様に『ごめんなさい』と言おう。そして、朝から主の御言葉を見て、そこに従おうと思います。