The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

赤裸々な過去からも導かれる神様

三か月ほどたって、「あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも、姦淫によって身ごもりました」とユダに告げる者があったので、ユダは言った。「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」
ところが、引きずり出されようとしたとき、タマルはしゅうとに使いをやって言った。「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」彼女は続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。」
ユダは調べて言った。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」ユダは、再びタマルを知ることはなかった。
(創世記 38:24-26 - 新共同約聖書)

聖書の中を読み進めてみると、良く『あれ?これは聖なる書物・・・なんだよなぁ・・・』と思うほど人間のどろどろしたというか、黒いというか、そういったことが多くあります。自分の中では、聖書は主である神様が正しいのに対して、神様に従っている人間でさえも間違いを犯すことがあるほど、罪の歴史が語られているのだと思います。罪を犯したから罰が与えられ、民族が滅び行く・・・訳でもなく、恐い神様・・・という事でもなく、こんなに赤裸々な過去があったり、普通に考えても無いだろと思うような状態からでも、『神様は導いてくださっている』ことの歴史なのではと。このタマルも、イエス様に血縁関係では繋がっている人で、マタイによる福音書1章の『読者トラッパー』的なあの長たらしい系図の中にしっかり入っている人です。そして、まさにその系図の中に入った修羅場がこの聖句の場所です。
そもそもなんでこんな状態になったのでしょうか。まず、ユダと言う人物は、ヤコブの息子で、12人兄弟(レア、ラケル2人の妻から)で、レアを母にもつ4男(聖書には男性しか書かれて居ないですが、12人全員男・・・だったのかなぁ)です。前の章ではヨセフを売りに出した張本人(殺さなくて済ませた)で、早々に独立して別なところに住んだようです。そして、カナン人アブラハムの時代にそこに住んでいたのにそこから嫁を取らなかったという所の人)のシュアという人と結婚して何人か子供を産んでいたそうです。そこで、長男のエルの嫁としてタマルが来たわけです。しかし、このエルと言う人が、主の意に反していたそうで、主が彼を殺されたと書かれています(何がダメだったんでしょうかね?)。
で、当時の風習としては、兄嫁がやもめになるときには、弟が兄の代わりに子孫を残すことになるそうで、次男のオナンがタマルと床を共にすることになったわけですが、まぁ、、、性交の最中に外に出すというのがオナニーという語源になってしまったわけですね。そんなこんなで、彼も主の意に反することをしたということで、彼もまた殺されてしまったと。それでもなお・・・その弟のシェラが成人するのを待てと言われてずっと待っていたようです。
待っていたにも関わらず、ユダが、シェラをタマルに与えるのを忘れてたのか何なのか知らないんですが、約束をすっぽかしたみたいなんですね。それで、子を得るために、娼婦のような真似をして、直接ユダと共に寝た形になったわけです。そのときの子供で、しかもそれが双子だったわけで、そこから系図が繋がってイエス様まで来るわけです。
あまりに赤裸々過ぎるので割りと自分はこの箇所嫌いなんですが・・・(汗、でも、タマルという人が罪を犯した・・・と言うことを言っているのではなくて、タマル自身は主の系図に繋がる子孫を主から与えられたという物凄い恵みを受けているんですね。そのことを知ってか知らずかですが、しかしながら子を与えられるだろうというこの信念というか、執念と言うか、それを主なる神様が憐れまれたのではないかと思います。
もう一つ思うのは、こんなに赤裸々な過去を他の人の前にさらけ出せるのだろうか?という事。特に日本は恥の文化を持つような、『世間体』を大事にする(?)人が多い中で、人目に付くような恥を堂々とさらけ出せるんでしょうか?
しかし、恥も外聞も、全て主に告白して、主の御旨を聞き、主の導きを仰ぐことが、直接他の人に赤裸々な過去を曝け出さずとも、また、曝け出されてしまったとしても、主が導いてくださるという確信があるから、本当に心が平安で射られるのではないかなぁと思います。