The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

正しい者はいない

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、
足は血を流すのに速く、
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」
(ローマ人への手紙 3:9-18 - 新共同訳聖書)

誰が正しいのか。誰が義とされているのか。この辺の話題は基本的にこの世の中では尽きないですね。戦争する殆どの国、人、団体が『悪いことをしよう』としてやっているのではなく、『自分たちが正しい』としてやっているわけなので、どれだけ私たち自身が浅はかかと思えます。
しかしながら、じゃぁ誰が正しいのか?とすると、実際はどういうことになるんでしょうか。
私たちが住んでいる世界で、何かしらの行動をする時に、無意識にやっているというのは、『それをやっていいんだ』という良識の上でやります。『やっちゃダメなのにやる』という場合はかなりの緊張が必要ですね。もしくは『やりたくないのにやらなければいけない』という時には自分には正義がないことを知っているわけです。
もし、お互いが100%自分が正しいと思って、違うことをやったらどういうことになるでしょうか?
当然、お互いが衝突するでしょう。一緒にやるということは、自分が正しくなかったというのを認めるか、これから自分が正しくないことをしますという状態になることと同じだと思います。
じゃぁ、本当の正義は一体どこにあるのでしょうか?
個人個人が自分に対して完全に主観的に見れば、一人一人自分が100%正しいということができるでしょう。そうなれば、この世の中は素晴らしいくらいに戦争が勃発しまくるわけですね(汗
相対的なものとして見ることができれば、本当に自分が100%正しいのか?という疑問が出てくるはずです。いや、ちゃんと見れば1%も実は正しくないのではないか?とか。おそらく、全部の事実に対して、足し合わせてやっと100%になるんでしょう。それが言ってみれば歴史であり、時間経過なんだろうと思います。
じゃぁ、誰が正しいのか?聖書に書いている通り、神様という存在抜きにすれば、誰ひとりとして正しいことがないわけです。いや。人間は、相対的に見て、自分が正しくないから、神様すら正しくないと否定することになるかもしれません。しかし、主である神様と良く交わりを持ち、神様を認めれば、その正しいことがわかると思います。私自身は正しくない者です。主が正しいから、正しい方向に(自分がいやいやであっても)導いてくださる確信があります。