The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる

キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマ人への手紙 10:4-13 - 新共同訳聖書)

『信仰』(Religious)とか『義』(Righteousness)とか『救い』(Salvation)という語は、クリスチャンはよく使いますが、クリスチャンじゃない人々には割となじみ薄い言葉かもしれません。まぁ、正義(Justice)だとか救う(Saving)とかの意味だと普通に使ってはいますが…。
キリスト教において、罪からの救いや天国へ行くことについては、何かすることを強制されるというわけではありません。むしろ、そういった行いによって、自分が努力したから見たいなことを一切神様は排除されます。だからこそ、主が『イエス様を贖いの代価として十字架につけられた』ことを信じる信仰と、主から来る『恵み』によって救いが得られるということであるわけです。
とは言っても、じゃぁ誰がクリスチャンですか(汗)ということになるわけですね。この節は、その信仰がどう表わされているかを丁度明らかにされている箇所だと思います。
『心で信じて義とされ』と、『口で公に言い表して救われる』と、2つのパートに分かれていて、先には口→心、後には心→口と言った具合に、2度実は同じようなことを聖書では書いています。
これは、心と口と、本当に同じくそれを信じているということに他ならないのでは?と思います。
よく、口先だけ…見たいなものもありますが、口先だけっていうのは心も心先(?)だけであって、完全にはそれをしようと思ってはいないわけですし、心が中途半端な時は、まぁ軽口は叩けたとしても、本当にそうなのか?というとそうでもない見たいな感じになります。
よく自分は大学の研究とかそういった形でプレゼンをしますが、自分でやった研究は基本的にはほぼ全て把握してますし、理論はまぁ上手く相手に伝えられないにしても、議論出来るだけの確証も持ってますから、すんなりいろいろと話せるわけですね。しかしながら、何らかの別分野について調べて、それを話す時なんかは、自分のことを話すよりも当然知識も心の入り方も違いますから、逆に何が発言できるのかと緊張したり、上手く言葉が出なかったりするわけです。これなんかは割と身近な形かと思いますが、信仰や、伝道なんかも全部同じではないかなぁと。自分が経験したこと、自分が主と会ったこと、それについて確信がないと、本当に主を信じてほしいとか言えるだろうか?と思うわけです。ぃゃ、言えるは言えるだろうけれども、それを強く勧めることができるかというと、そうではないなぁと思います。