The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

進んで奴隷となる理由

では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
(コリント人への第1の手紙 9:18-23 - 新共同訳聖書)

伝道の中でとか、ともに聖書勉強をしている後輩とかと話す時に、クリスチャンの文化についてのバックグランドが無い人でも割と福音の内容については理解してくれているようです(それが権威をもつかどうかは聖霊様に掛かっておりますが)。その中で気付くのは、やはり日本においては『生活が変わることについての不安』があるように感じます。
誰しもが持っているのはおそらく「疑念」だと思います。本当にそうなんだろうか?本当に変わるんだろうか?と言ったものではないかと思います。当然、それが晴れて、信じることになるので、これは軽視できないものだと思います。それに、聖書の内容、クリスチャンの生活、どれを取っても『自分とは違う』ものだと思えてしまう。それは当然の話で、むしろ『自分と同じだ』なんて思う人が居たら私の方が恐いです(汗
聖書の中で、パウロが語っているこの場所は、パウロが何故コリントの教会の人のために進んで『奴隷のように』なったのかということです。仕えるレベル…なんて話をするとまた物議を醸しそうですが、真剣にあるものを教えたいとなればなるほど、そのことについて本当に相手に仕えるかのように接する必要が出てきます。勉強だってゲームだって、スポーツでもそうだと思います。上から『やれ』と押しつけてやったところで上達するかどうかは疑問です。上達したり、長く続いたりできるのは『やりたいから』とか『楽しいから』とかで、自分から進んで出来るような状態になるということなのでしょう。聖書に書かれていることはこの世においての立ち居振る舞い全てのことなので、言ってみれば人生そのものを勉強することになると思います。このことについて真剣に教えたいとなれば…人生そのものを相手に仕えるようにするわけで、これこそ奴隷的であると言えると思います。
また、ゲームにしろスポーツにしろ、その人と同じ状態に『なる』というよりは、『理解する』ことが、より相手に仕えられる状態になるだろうと思います。イエス様が神様としてではなく、人間としてこの世に来られたというのも全く同じことだと思いますし、ここでパウロが『ユダヤ人にはユダヤ人のように』、『律法を持たない人に対しては律法を持たない人のように』、さらには『弱い人に対しては弱い人のように』と言っている通りだと思います。
ここで、クリスチャンとして注意しないといけないのは、生活を合わせるのはいいとして、『罪の属性』まで合わせてはいけないということだと思います。信仰によって、何でも出来る分、たとえば現地の食糧だとか、現地の風習に対しての理解だとかは当然信仰に応じて行ってもいいものだと思います。しかし、これも難しいですが…罪であると判断されるものに対しては信仰によって離れる必要があると思います。ここが生活の中で変わるべきところだと、指し示している場所でもあると思います。
今導こうと思っている人々が、越えなければいけないハードルをどれだけ低く出来るかは、実際自分がどれだけその人に仕え、どれだけその人のことについて神様に祈れるかだと思います(それを知っていてそこまでできない自分の不信仰さをお許しください!)。
ちなみに、1コリント9:1節から、パウロの弁明がありますが、クリスチャンであっても、権利と言うならば世俗的に良いと思われている生活をする権利は持っているのだと。こっちの権利を主張するクリスチャンも居ますが…、これは神様の恵みのゆえにあるものです。権利を行使しようと思えば出来るわけですが、『あえてせずに、本当に思っている人のために命(その権利)を捨て』て奴隷のようになってその人に仕えてきたということだと思います。その『本当に思っている人』の数が多ければ多いほど、そうしなければ多い人数と関わることが出来ないわけですから、本当に祈りと熱心とが必要だなぁと心から思います。