The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

働き手を送ってください

エスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
(マタイ 9:35-38 - 新共同訳聖書)

働き手を送ってください!と、今居る会津若松市や大学の中に居るだけでも本当に強く思います。
会津大学は外国人の教授が多く、彼らの中には伝道師としてもいらっしゃった方も居ます。
クリスチャンとしての総数を見ると、日本では1%にも満たないと言われているところで、会津大の教授としての中だと10%は居るんじゃないか?と思っています。
学生も、韓国から来た学生はほとんどクリスチャンですね。そういった意味では働き手は多いように見えるかもしれません。
しかし、日本のクリスチャンが1%にも満たないと言われているように、うちの大学で1%と言うと大体15人。まぁ、もうチョット多いかもしれないですが、2%には満たないかもしれません。あと98%はまだ主を知らないか、色々と聞いては居ても「宗教はちょっと…」という人ばかりです。
勿論自分たちも伝道をしよう、隣人に主のことを伝えよう、証をしようと考えていますが、こういった働きをする人が本当に少ないなぁと思います。
エス様のこの時代を考えると、ユダヤ教として、神様を知っているという人が多かった時代です。イエス様も、ユダヤ教としての枠組みを逸脱することなく、むしろ正統たる信仰に立ち帰らせるために働かれていたと思います。そんな中でさえこうして群衆が飼い主が居ない羊のようであったということは、今の時代なら猶更のことかもしれません。
エス様の昇天後、働き手としての活動は、聖書の中ではパウロヨハネの活動がかなりクローズアップされていますが、実際にはかなりの使徒、信者達が伝道のために動いていたことも分かります(特にパウロがローマに行く時には先に信仰に入った人々がパウロを待っていた=先に主を伝えた人が居たということです)。
主の霊が私たちの中に充満になる時、また、神様の計画がある時、伝道は速やかに行われることは確かです。さらには、どんなに長い時間がかかろうとも、主の前に確信を持って伝道のために祈り続ければ、祈っている人は主に立ち帰るようになることも確かです。しかしながら、1人の人が一体どれだけの人に関わることができるでしょうか。イエス様は12人を直接の弟子として教えました(当然、もっと多い人が弟子としていましたが、直接養育をしたのは12人ですね)。パウロも、コリントにて直接バプテスマを授けたのはクリスポとガイオ、ステファナの家の人だけだったと書いています。直接養育をしたのはそんなに多くないだろうと思います。養育と言っていますが、実際にその人に関わるということになるのは、伝道して、彼が受け入れて、そこからさらに共に主を学んでいくということだと思います。マタイ28:19-20に書かれているのは、

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイ 28:19-20 - 新共同訳聖書)

ということです。伝えるだけではなく、また、儀式によるバプテスマだけではなく、「命じておいたことをすべて守るように教える」まで含むのだろうと。そうすると、1人でそんなにそんなに多くの人に関わることはできないのでは?と思います。そうすると、本当に今のうちの大学の中ででも、本当に『働き手を送ってください』と切に祈ることしかできないなぁ…と思います。
後輩たちのことをいろいろと見ていると、やる気がない学生は本当にたださまよい歩いている感じがしますし、やる気がある学生も、目標を見失ってただ突っ走っているような感じを受けることもあります。そこに主なるイエス様という素晴らしい主人を迎えて、目的がハッキリすれば、彼らが空しいこととかに行かなくて済むのになぁ…と思うと、このお祈りは本当に緊急の祈りだなぁと思います。