The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

小羊の血と自分たちの証の言葉

わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、/昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、/投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と/自分たちの証しの言葉とで、/彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
このゆえに、もろもろの天と、/その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」
(黙示録 12:10-12 - 新共同訳聖書)

ヨハネの黙示録は、本当に読んでいて難しいものなんですが、イエス様の再臨、そしてこの世がどのように行くかを預言しているものなので、本当に祈り、聖霊に聞きながら読まないと読み進められないものでもあります。
この節も、各教会への書簡ののちに、7つの巻物、7回の天使のラッパ、そして女と竜と、見た目には次から次へと悪いことが起きているわけです。
この節は、天使ミカエルの軍が竜と呼ばれる存在に戦いを挑んだ場面から。竜は天使ミカエルの軍に追い落とされ、天に居場所がなくなったので地に落ちてきたわけです。そして、天ではこれに対して上記のような声が聞こえたわけです。
ここで、誰がどのような状態になっているかを見ると、
神様: 救いと力と支配が現れ、メシアの権威が現れる
竜: 兄弟たちを告発するもの、昼夜問わず神様の前で告発するものが投げ落とされる
  →怒りに燃えて地へと降りていく
兄弟: 小羊の血と自分たちの証の言葉で打ち勝つ(死に至るまで命を惜しまない)
という感じです。これは天でのこととなっていますが、自分たちに強く関係してくるのは『兄弟』のところではないかと思います。
小羊の血はイエス様の十字架で流された血、自分たちの証の言葉はつまるところ私たちの福音です。主は、私たちに、主の十字架の証人になるように言われています。

あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒 1:8 - 新共同訳聖書)

クリスチャンとなった自分についても、この2つのことについては非常に重要なものです。当然、イエス様の十字架の血によって、自分の罪を許してくださるようになったので、これを話すことがまずあります。もう一つの証というのは、じゃぁ自分が何故クリスチャンとしてなったのか。どこで主に会って、何が変えられたのかを語る必要があるわけです。
自分自身は幼いころから教会の日曜学校に通っていたりとか、小さい時から結構クリスチャン文化には触れていました。母がクリスチャンだった(現在は全然教会に行ってませんが…)ということもありますが、日曜学校に行き始めたのは小学2年の時にたまたまピアノのレッスンの帰り際に見かけたクリスマスパーティからだったと思います。それ以降は自分の意思で日曜学校に行きたいと思って、友人を誘ったりしました。考えてみると、内容はよくわかっていなかったのに、自分のやっていたのは割と伝道に近い(?)ことだよなぁ…と。そこに行けば楽しいものがある。だから他の人とも一緒に共有したいという感じは、クリスチャンでなくてもわかってくださると思います。
中学から高校までは日曜日といえば部活だったので、殆ど教会に行けなくなりました。たまに牧師先生と道端で顔を合わせるだけだったので…。聖書は部屋にあっても、全然読まないし、むしろ聖書は一度読んだからとかって、コーラン開いてみたり、般若心経(でもこれはそのまんまは読めないよね)とか、読むことにハマっていた記憶があります。
大学にきて、今一緒に霊的な活動をしている白寅天教授に会った時に、聖書勉強を勧められたわけです。(教授が学生を…と目くじら立てる人がいるかもしれませんが…一応正直に書きますよ。)聖書は読んだことがあるからみたいな感じで、半分何をいまさら的な感じで聖書勉強を始めたわけですが…。初回から全然認識が違うというか。聖書って、一人で読んでるとまぁ物語的で、多少の教訓はあるんだろうけどもむしろ歴史書みたいな感じで読んでしまうわけですが、疑問を持ちながら学びを持っていくことで、一つ一つの御言葉が活きてくる…というか、共感できる、もっと言うと従うべき言葉になってくるのが実感できたわけです。
しかし、学んだからと言って、主と会えたかというとそうではなかったです。正直に言いますと、よくクリスチャンの本にあるような『強い霊的な経験』はないんですが…。しかし、バプテスマを受け、さらにその後、KGKや今のJENM、教会の奉仕とか、かなり多岐に渡って活動を迫られていた時に、白先生の勧めで何に集中するのかというお祈りの時間を1日ずっと持っていた時に、

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(ピリピ 4:13 - 新共同訳聖書)
エスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。(ルカ 18:27 - 新共同訳聖書)

本当は自分自身で何もできない(出来ていない)ことと、主がそれをしてくださることに確信を持てた時に、涙が出てきたことを覚えています。
今は博士後期課程で、論文を書いたり、後輩を教えたりする時間が多くなり、忙しくなるとどうしても主に向かうことがおろそかになりがちでイケナイと思ってるんですが、それでも自分自身福音を携え、自分の証を携えていくことが重要だと思っています。