The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

信じて、祈る。

朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
(マタイ 21:18-22 - 新共同訳聖書)

この節もイエス様の物語という意味では割と有名なところかもしれません。
何で有名かというと、キリスト教を信じていない人たちからすれば『なんだ、イエスも傲慢じゃないか』と言われるような所として…です。
確かに、文面をそのまま見ていくと、
空腹になる→イチジクに実がない→枯れてしまえ
なんて捉えられてしまうようにも見えます。
ここで何が教訓として与えられるかというと、まずはイチジクとイエス様との関係です。
エス様が神様であり、このイチジクは実がなるようにと植えられた私たち人間であることです。
ここで言う実とは、聖書の他のところでもブドウの実が成るたとえで用いられているところもありますが、御霊の実(ガラテヤ 5:22,23)であったり、神様の御旨が成ることだったりします。
いつまでも結実しない木を神様が黙って見ておられるかというと、そうではなく、時期に来て結実していない木を、神様は剪定されたり、取り去られたりします。
そういった意味ではここでは非常に重要な警告を発せられているわけです。
もうひとつの教訓は、今度はイエス様が自分たちであって、かつイチジクが周りの事象出会った場合です。
イチジクの木が、『枯れてしまえ』と声を掛けただけですぐに枯れてしまうのは奇跡です。
ありえない何かを、人間の物差しで測ろうとすると当然ですがそれは無理だとか、奇跡だとかで済ましてしまいますが、神様は何でもお出来になる方です。
これは信仰ということで、
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブル 11:1 - 新共同訳聖書)
と書いてあるとおりのことです。
エス様の時にはすぐに信仰の結果が出ましたが、これは私たちにとっても同じです。
本当に必要であれば、また主の御旨に沿うのであれば、信じて疑うことなく、神様に祈ることです。
神様は祈りを聞いてくださる方ですから、必要なことには直ぐに、神様が時間をかけることが必要と判断されれば時間を掛けてそれが成ります。
当然、神様の御旨に反することであれば…信じたところでそれが御旨に反しているということが分かるように悟らされるでしょう。
主と共にいつも祈りの中にいれば、何が行われるか、無理なことであっても確信を持って行うことができるようです。
この2つの教訓を、今日どのように生かすか。
一番はやはり主の御旨を知って、確信を持つことだと思います。
祈りの中で、何が神様に受け入れられる良いものなのかを、主に聞いていきたいです。