The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

主を愛する事

主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を/都が包囲されたとき、示してくださいました。
恐怖に襲われて、わたしは言いました/「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを/嘆き祈るわたしの声を/あなたは聞いてくださいました。
主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる。
雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。
(詩篇 31:21-24)

主を愛する事

ダビデが見た、主がダビデを愛してくださる事は、たとえ都が包囲されて絶望の中にあっても、また、主が自分から離れて行ってしまったと感じたときでも、主が守ってそこから打開してくださったのをみたからでした。

一体誰が自分の生死を決定するのでしょうか。自分で自分の生死を決めるのは、一見人間としては普通のように見えます。実際、主を信じない殆どの人はそれは当たり前だろうというのかもしれませんが、本当に決められているのは、私たちを造った方であります。自分で生まれる時間・場所を決める事は出来ませんし、自殺と言う方法はあれどもそれ以外では基本的に自分が死ぬ時間・場所も決まっているものではありません。

主を愛することは、生き死にに関することも、その他の事も全て、主に任せる事だと思います。主がしてくださる事に、そのまま行くことだと思います。
主は果たして私たちに何をせよと言われているのでしょうか。明確に言われているのは、キリストの福音を伝える事です。終末が来る準備をせよと言う事です。主を愛し、主を信仰する事です。それ以外に何をするというのは細かく記されていません。全て、その人の才能や能力に応じて、それを生かして用いる事くらいです。商売する人は商売する人、教える人は教える人、誰かから助けてもらって生きる人はその通りにするものです。そこに貴賤は無く、ただ只管に『主の愛の中で生きる』ことは同じだと思います。

自分が『本当にこれでいいのだろうか?』と思うことが良くあります。勿論、それでいい部分、悪い部分がありますから、全てにおいてこれで良いという事は無いんだと思いますが、主を愛していることにおいては、もっと愛が増すように、良い部分で自信のない所は自信を持って、悪い部分で高慢になりがちなところは自制を覚えていく必要があると思います。

自分は特に体の事が疎かになるので、良く注意していくことが出来るように主に願いながら行きたいです。