The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

イスラエルの民が主と争う、主を試す

主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。
民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、
主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。
見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
出エジプト記 17:1-7 - 新共同訳聖書)

エス様が30日間荒れ野に出された時、悪魔からの誘いに対して、「主なる神を試みてはならぬ」と語っていましたが、一般の人はと言うと、ことある毎にこういった力だとか、モノというのは試したくなるもので、イスラエルの人々も、『我々に本当に神様が共に居てくださるのだろうか?』という疑問と相まって、不平・不満と共にこういうことをするのではないかと思います。
主を試みると言うのはどういうことなのでしょうか。何故悪いのでしょうか。
主は、信じる信仰によって私達を召してくださいますが、召される時には十分なほどの証を立ててくださいます。アブラハムの時は直接、イサクやヤコブの時も直接、ヨセフの時は夢で啓示を、モーセには直接、アロンやミリアムはモーセを通じて、また実際にエジプトでの奇跡を目の当たりにして、サムエル、ダビデ、イザヤ・・・イエス、皆、『信仰があったから』直接伝えられたというだけではなく、それを証明する奇跡も共に起こっていることがあります。神様は、先に『信じることのできる状態』を作ってくださっているわけです。
それにもかかわらず、「いや、まだ信じられない。お前の力を見せてみろ」と言わんばかりの主への試みは、これは高慢以外に無いことです。主の力が無ければ、エジプトから脱出が出来なかったことは明白なのに、ことさら水、食事と言ったことに対して『文句を言う』のです。別に、水が無い時に『水が欲しい』と言ってはいけないというわけではありません。彼らの態度が、『水がありません。飢え乾いてしまいます。どうか、水をお願いします』という懇願ではなく、『水が無いではないか。我々を殺す気か。』と言った威圧だったわけです。懇願に対して主ははっきりと聞いてくださるのに対して、威圧に対して、主が聞いてくださるかと言うと、正直聞いてくださる機会は少ない(争って証が立てられたのはヤコブイスラエルとなったことと、この2つくらいではないでしょうか)です。
しかし、イスラエルの民は信仰の厚い、良い指導者を持ちました。そういった反抗を聞きながらも、しっかりと神様とネゴシエーションしている。実に、モーセのような態度、神様に聞き、神様に懇願することが、イスラエルの民に本当に必要なものだと思うのですが・・・。
私自身も、必要なのはこの部分です。自分の力がどうとか、神様の力がどうとか、それを試して云々って言うことではなくて、神様の力を信頼すること、また、窮乏することやものに対しては、神様に懇願し、聞いていただく必要があります。祈りの中で、へりくだって、聞いていただくことが必要です。
今の世の中、特に日本では、モノが多いので、中々こういった生命の危機に出会うことは少ないのですが、無いわけではなく、実際直面している人も多いです。そういった人たちのためにも、自分自身のことについても、自分の全てを、主に注ぎ出すことが出来ればと思います。