The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

喜びは一瞬で過ぎ去る?

モーセイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。
マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、
言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」
出エジプト 15:22-26 - 新共同訳聖書)

主が導き、モーセを先頭にしてイスラエル民族がエジプトから脱出したときに、エジプト軍が、イスラエルの民を連れ戻し再び奴隷にするために追って来ました。そこで起こったのがモーセの物語でも有名な海を割ってそこを通過すると言うものでした。実際には『葦の海』と呼ばれる所、地中海沿岸のカルデラ化したところを通過したと言う説が有力だそうです。(http://hiroshi-kobayashi.at.webry.info/200803/article_8.html
エジプトからカナンの地までは、歩くと40日で着く距離だとも言われているくらいです。それが今後何故40年も掛かったのか?何が問題だったのか?その答えが、まさにこの『海が割れた』ことで助けられた後のことだったのだと思います。
イスラエルの民は、葦の海から、ホレブ山の方向に移動していたのでしょう。ホレブ山は中東、シナイ半島南部にあるジェベル・ムーサーと言う山か、もう少し北側にあるラス・サフサファと言う山辺りだということです。どちらにしても、少し南下するそうですね。どうしても60万人以上の巨大な民族移動ですから、時間も体力も掛かります。昼夜ずっと導きがあったとしても、普通の移動よりは時間が掛かるでしょう。
マラの苦い水は、さぁ、この荒れ野(ほぼ砂漠)を通って、ホレブ山へ行き、契約を持ってカナンの地へ行こう!とする丁度入り口のところでありました。そう。砂漠ですから、水が無いと人間生きて行けません。イスラエルの民達は、全員が全員、3日も水が絶たれた状態で移動していきました。
導き出された側からすれば、どういう反応があるでしょうか。目指すカナンの地は天国のようであったとしても、現状の生活(エジプトでの生活)よりも悪くなったこの荒れ野での移動を目の当たりにしたときに、不平・不満は付き物ですね。『あの時はこうだった』と言って、戻ってしまうのが人間なのかもしれません。そのときに、彼らが見つけたのは「苦い水」だったわけです。折角見つけた水。それが飲めない。どうするか。ここで、民は指導者に不満をぶつけます。『何故我々をここに導き出したんだ。何を飲んだらいいんだ。乾いて死んでしまうぞ』とでも言ったのでしょう。
そこで、モーセは主に話し、主から与えられた方法で、この苦い水を、飲める水に変えることが出来たわけです。そして、主から言われたのは、

言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」

というところであるわけです。人間ではどうしようも出来ない状態。特に、飢え、乾き、病は、いつどこで、何が襲ってくるかわからないわけです。そういったときにも、主がこの行程、ずっと守ってくださると言うのは、非常に心強いものではないでしょうか。
主はこのように証としてこのマラの水を見せられましたが、イスラエルの民の心はどうだったのでしょうか。救い出された時に、主を讃美する歌を一生懸命歌ったのに、3日で、渇きによって喜びは過ぎ去ってしまっています。また、主から水が与えられた後に主を讃美したという記事がありません。彼らは、この変化を善しと捉えることが出来なかったのかもしれません。困難が続くこと、しかし、困難を主が下支えしてくれることを信じることが出来ずに、自分達の目の前のことを考えてしまっているようです。実に40年間、これを変えるために、荒れ野をさまよう結果になるわけです。
これらのことは私達の日常でも起こりうることです。今の安定した生活を捨て、主に導かれるときに、これらのことは必ず起こるわけです。物理的なものもあるかと思いますが、心の乾き、心の病、それらは人間ではどうすることも出来ませんね。特に、今の時代、日本はいくら医師が不足していると言われても、殆どの病を病院で治せるいい時代ですが、心の病を負っている人の方が多いのでは?と思うほどです。この心の病を、信仰を持っている人には主は治療してくれるのですが、信仰に入る一歩で、このように劇的な変化に戸惑う人も多いのだと思います。
クリスチャンになって6年目となる自分でも、この変化の戸惑いはあります。その度に、不平不満を言わないで、主に付き従うこと、主を信頼していくことを考えたいと思います。