The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

召命

神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
出エジプト記 3:6-12 - 新共同訳聖書)

何か権威のある人に、いきなり『あなたはこれをしなさい』と言われたときに、皆さんならどう答えますでしょうか?。
いろんなシチュエーションがありますが、とりあえず『あなたが次の社長です。今から社長として活動してください』とか言われたらどうするでしょうか?。自分でもそうだと思うんですが、きっと『何で俺?』というのと、『大丈夫なんだろうか?』という2つがすぐに襲ってくるのではないかと思います。まさに、モーセも目がテン状態だったわけです。
モーセが召命を受けたのが80歳頃と言われます。40歳前後で殺人をし、その後40年ミディアンの祭司エトロの羊を飼って生活していました。ホレブ山で、神様から直接話しかけられるわけです。
神様からの指令はこういうことでした。

  • 今行って、イスラエルの民をファラオから導き出す(ひっぺがしてくる)
  • 約束の地であるカナンまで連れて行く(先に人が居るから多分侵略する)

しかし、モーセもそう思ったでしょうが、やはり『何で俺?』ということなんだと思います。「わたしは何者でしょう」と話したのはまさにそれで、自分が何でそれができる権威があるんでしょうか?と言う事だと思います。それに、なぜそれをしなければいけないのか?という目的が分からないことです。
これに対して、神様は『わたしは必ずあなたと共にいる』と話してくださっています。実に、このことはモーセがするのではなく、神様がすることだったわけです。いきなり会社を明け渡されるのとは違って、もう決まっていること、後はそこに行って物事をちゃちゃっと進めてくるだけの状態になっているというわけです。
それでもやっぱり会社で言えば『担当者』という地位なんですよね。胃が痛くなるポジションです。どれだけ主である人、存在を信頼できるかによって、この胃の痛み具合は違うかもしれません。
とは言え、やれと言われたことを拒否することは、その話の破談を意味するところです。神様はそれを望まれていないと言うことは確かですが、実はモーセはこの後も『自分には出来ない』云々と、色々と泣き言を言うわけですね(汗。その度に神様が激励し、追加のソリューションを渡す・・・。もう断る理由も、何も無い状態にされて、あとは信仰あるのみなわけです。
私達はどうでしょうか。クリスチャンの人が見てくれていれば、私達自身も既に召命を受けているのではないでしょうか。大事をしろといわれているわけではありませんが、隣人を愛する、他の人のことをよく見ると言うのは神様からの召しではないでしょうか?
クリスチャンじゃない人も、神様を信じていない人も、自分の隣、自分の近くにいる人のことを考えることは無理じゃないはずです。何も今からソマリアだのジンバブエだの云々と言った遠い国に行って何かやって来いというわけではないのです(もちろん、そういった国の人を心配することも重要ですが)。
今、近くにいる人々と、その人々に対してどれだけ考えられるか。それが大きい時にはモーセのような召命であるし、小さくてもそれも召命ではないかなぁと思います。