The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

民族間闘争と神を畏れる

そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
出エジプト記 1:8-10 - 新共同訳聖書)

エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。
「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」
助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
出エジプト記 1:15-17 - 新共同訳聖書)
助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
出エジプト記 1:21 - 新共同訳聖書)

昔から宗教闘争や民族間の闘争があって、特に自国の・自民族の安全を守るためと言って虐殺を行うことなどは、近年では国際的な批判を浴びることになるわけですが、過去を見れば歴史はずっとこういうことを繰り返してきたのだと思うわけです。
創世記から、アダムとイブ(エバ)、アベルとカイン、そこから数代経てノア、又さらに経てアブラハム、イサク、ヤコブと来て、ヨセフの代にイスラエルの民がエジプトに移住し、神様が大いなる民として本当に数を多くされました。そこでエジプトの民もそのまま受け入れてくれればよかったのでしょうが、新しいファラオは自分とは違う民との決別を考えたわけです。そして、それはイスラエルの主として居た神様との決別でもあったわけです。
しかしながら、イスラエル民族も、長くエジプトに居すぎたところもあるかもしれません。約束の地とは違う場所に居ながらも、そこで増え、そこでずっと生活する間に、神様との約束を忘れてしまったのではないかとも思えます。こんな状態では、王がそれを知っていて、『そろそろお前ら約束の地に行けよ』とか言った所で、行くとは思えませんし、そういう状態だからこそ、主がある意味で過酷な状態に追い込んで行ったとも思えます。
問題は神様を畏れるか否かと言う事ではないかと思います。ここで神様を畏れるとは、神様が居ると信じ、その神様に対して真摯に思っているかだと思います。すると、エジプトの王はどうだったのか。エジプトは元々太陽神ラーの国ですね。自国の神は見るでしょうが、しかしながら、ヨセフを見出した当時の王はヨセフに神が居ることを見、今のエジプト王は神を全く信じて居ない(呪術等に頼っていた)ことが出エジプト記の序盤の各章で分かります。そのため、幼児虐殺という残虐なことも可能となったのでしょう。
しかしながら、エジプトにも神様を畏れる人が少なからず居たようです。ヘブライ人の助産婦(多分、立場的にもかなり高い位置にあった人なのではと思うんですが)2人に『間引き』を命令していたようですが、彼女らはそれに従わず、神様を畏れて、ヘブライ人(イスラエル民族)の子を生かすようにしていました。そのため、神様が恵みを与えてくださっています。
神様を畏れないことは、破壊の道だと思います。壊すことは確かに必要なことですが、必要以上に壊す、死に追いやることは、神様の意ではないことではないでしょうか。もちろん、神様がそうしなさいと言った破壊があるとすれば、それをしなければ神様を畏れないことになりますが。。。
神様を畏れること。今の私達にありますでしょうか?