The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

神様の計画

ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」
その日、父は彼らを祝福して言った。「あなたによって/イスラエルは人を祝福して言うであろう。『どうか、神があなたを/エフライムとマナセのように/してくださるように。』」彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。
(創世記48:17-20 - 新共同訳聖書)

主の決定は、人間の思惑とは違うことが多い気がします。
人間はどうしても『こうあるべきだ』とか、『こうならないとおかしい』という先入観で見てしまいますが、主は先のご計画を持っております。決定されるのは主なので、人間の思惑と違おうがその通りに導かれます。
当然といえば当然なのかもしれませんが、そこに人間が神様から離れていく理由があるのかもしれません。人間が神様を認定せずに、自分の思惑が成らない事を神様のせいにするなら、どうなるのでしょうか?。神様に決定権があるのであって、自分に決定権が無いことを知っている人は少ないかもしれません。そして、知っていたとしてもそれに従える人は殆ど皆無ではないかなぁと思います。
ヨセフと父ヤコブイスラエル)の間で、このように祝福のやり取りがありました。考えてみると、ヤコブ自身も、兄から長子の権限を奪った人間であり、しかし神様はヤコブを祝福されこのようにアブラハムからの子孫の列に加えられた上に、『イスラエル』と言う名を戴くまでに主と濃密な(実際には闘った)関係を持っていたわけです。ここにどれだけの他の人の思惑の違いがあったでしょうか。イサクは長子であるエサウに長子の祝福を渡すことが出来なかったですし、アブラハムはイサクを長子としたわけですが、実はその前に妻サラの奴隷だったハガルによって得たイシュマエルも居たわけです。こう考えてみると、伝統的な家系は長子によって継がれるのに、アブラハム系図は、長子によってではなく、主が認定した側(この時はほぼ常に弟)によって続いて行くのでした。
そして、イエス様のところまで行くのに、実に何度、長子ではない家系を通ったのでしょうか。家系どころではないですね。女性まで含まれ、犯罪者まで含まれ、奴隷まで含まれ・・・。神様のご計画は全くもって、人間の意図するものとは別なのではないでしょうか。
ヨセフも、自分の長子に祝福が欲しいと願って、実際にイスラエルの右手の祝福を、マナセヘと移そうとしましたが、イスラエルには神様の計画が伝えられていたようです。
そうすると、私達はどうしたらいいのでしょうか。自分の思惑と違う主の決定があると知っていれば、私達は落ち着いて主の決定に従う必要があるのではないでしょうか。もちろん、自分の思惑も主に聞いてもらう必要があると思いますが、主の決定、主の導きに従い、それを讃美することこそが、一番良い決定なのではないでしょうか。決定権は主なる神様にあるのですから。