The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

自分によってではなく

兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
(コリント人への手紙第1の手紙 1:26-31 - 新共同訳聖書)

救いは行いによるのではないと、2テモテ 1:9にも書いてありますが、そもそも救い自身が自分によるものではないわけです。自分が何だったから、自分がどれほど何をやったから、それだから何かを出来る…というわけではまったくないわけです。むしろ、何かができたとしても他のことができるかどうかも分からないし、頭が良くても運動は人並みかそれ以下ってこともあるし、時代が時代なら真っ先に戦争で死んでいるかもしれないこともある、それくらい自分は何も自分に対して出来ていないわけです。自分で自分を救うことがどうして出来るでしょうか。
しかし、神様は貴賤・優劣に関わらず、いや、むしろ人間の思う貴賤・優劣に対して、賤であり劣である人を救い、罪を贖ってくださいました。これはなぜなんでしょうか?
人間が推し量る神様の意図は…と言うか、聖書に書かれていることは、世の中的に地位の高く、神様から離れている人を低くし、世の中的に下流下流の人を持ち上げるためのように書いてあることが多く、実際そうなることの方が多いわけなんですが、自分にはその部分は意図というよりも結果論のような気がします。なぜなら、『神様の前では公平』であり、『神様の前では何も誇ることがない』からです。世の中的に地位が高いという状況は、神様に従っていようがそうでなかろうが、世の中的には神様の前の公平という線よりも大分上にあります。だから、神様に従うには、その線の上の部分を、神様の栄光のためとしてささげ、自分は謙るという状態になるわけです。貧しい、地位の無い人方は、神様の前の公平という線よりも下に居れば、当然持ち上げられて、しかも値なしに持ち上げられ、その線の上におかれるわけです。
世の中的にはそんな感じで、神様的にはおそらく神様の前の公平っていう線が、世の中的などんな地位の線よりももっと上にあるんじゃないかと思っています。だからこそ、優劣の逆転が起こるわけです。
そんな優劣の逆転、人間がやっているわけではありません。自分で何ができるかって何もできないですが、神様は全てそれをやってくださっています。そして、まだ信じていない人に対しても、信じている人に対しても、『先に』やってくださっているということです。
自分でやったもんじゃないから受け入れられない…なんて言う人もいるかもしれませんね…。子は親を選べないというのと同じで、自分によってではないことを認めないでいるのは自分にとっても相手にとっても不幸ですよね。神様は先に自分たちのために救いを見せてくださいました。私自身は恵みとして、精一杯受けたいと思います。