The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

神の義

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
(コリント人への第二の手紙 5:21 - 新共同訳聖書)

ここでいう義とは、『他者に対して誠実で、偽りのない態度で臨める魂の状態』だということだそうです。人間は果たして義を持っているでしょうか?
神様の基準から考えると、100%の義を持っている人間は居ないでしょうし、自分は100%の義を持っていると言ったところで、神様に対して義を持てるのかというと、それも難しいでしょう。原罪がとかそういうことだけではなく、神様が人間の施しを必要とされる方か…という立場の違いもあると思います。だからこそ、神様に義と認めてもらうには、神様を信仰しているがゆえの義認が必要となります。それが神様の義ですね。
神様の義は当然ながら神様が持っている義であります。自分たちがどれだけ欲しがろうが、神様が持っているものですから当然ながら神様の決定がなければ自分たちは貰うことができませんね。
信仰義認自体は旧約聖書の時代から多くありましたから、イエス様を通さなくても義として認められるんじゃないかと思う人も多いかもしれませんが、アブラハムにしろモーセにしろダビデにしろ、彼らが義と認められる理由は、当然神様を信じる信仰とともに、神様の『言』を信じる信仰によって義と認められました。この『言』がイエス様(ヨハネ福 1章)なので、旧約時代の信仰義認と今とは何ら変わらないことが言えます。もっといえば、その言が今や明らかにされた…つまり、神様が私たちに『言であるイエスを信じれば、義として認めますよ』とこう言っておられるわけで、私たちは信じることで神様が私たちを義として認めてくださると言っているわけです。
旧約時代の律法がなくなったわけではなく、また様々な土地に行ってその律法が風習によって変わるとか言うことはないわけです。それらをすべて守らなければ…とか、努力して守らなければ義として認められない…というわけではなく、『復活のイエス様を信じれば、それで義として認めましょう』と言ってくださってるわけです。なんという恵みでしょうか!
まぁ、当然のことながら、義として認めてもらった後に、義と認められたんだからそのような生活をした方がいいわけで、神様の掟に従う生活が待っているわけですが、それを上手く出来なくても、すでに義と認めてもらっていて、神様の所に行ける状態だということなわけです。失敗することを恐れなくていいわけです。先にこのことを与えてくださった神様に感謝です。