The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

主のギフト

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
(ローマ人への手紙 14:7-12 - 新共同訳聖書)

エス様は誰のために、何のために自分の命を捨てられたのでしょうか?
自分自身、このことが恵みによって『タダ』で貰った救いですから、ややもするとそうなって当然とでも言わんばかりに思ってしまう弱いところがあります。これは神様からの贈り物なんです。
贈り物には当然意味があります。日本でも時節柄の贈り物があり、それぞれ相手に対しての関係をよく保つためのものです。贈り物のやりとりは相手のことを忘れておりませんよという挨拶なのかもしれません。
神様の贈り物は、『人間を罪から救いたい』という贈り物でした。そして実際その贈物は、イエス様の十字架、聖書の教え、聖霊の導き、神様の愛のモデルなど、『救いセット』として神様のありったけを詰めて贈って下さったわけです。
そんな贈り物、受け取ろうが受け取るまいが、今、この世に居る全人類一人一人に贈られたわけです。そして、受け取ってそれに与かった人が、神様の愛のモデルを見ながらも、依然他の人を誹ったり、嫌悪したりすることがあるのも事実です。
今はこの世とあの世で神様と実物同士で面と向かって会えないですが、会う時には当然『自分は○○でした』と話すことになるでしょう。そんな時に、神様が贈り物を送った人々に対しても悪いことをずっとしてきたら、どう思うでしょうか。
神様が大切に思ってきた人々をないがしろにすることは、神様の御旨なんでしょうか?どう考えても違いますよね。
クリスチャンの中でも、『兄弟』という言葉を多少狭く考えている方が居るかもしれません。
神様は誰にその贈物を送ったんでしょうか。受ける・受けないは別にして、信じる全ての人に送ったわけです。それは、可能性としては全人類が信じる可能性がある話です。生まれてから誰ひとりとして関係がない人間は居ないでしょう。いや、居たとしても(胎の中で亡くなる嬰児がそれになるのかな)、神様は実際に見ています。胎の中に居る時から、いや、その前から、ずっとその存在を見続けて居てくださるわけです。そんな、まだ神様からの贈り物を受け取っていないみたいな感じな人々を、『兄弟ではない』と突っぱねることなんて出来るでしょうか。むしろ、早くその贈物を受け取ってほしい。その贈物はいいものですよと、伝えたいと思うわけです。
長文、ノンクリスチャンの人でここまで読んでくれている人がどれほどいるかわかりませんが・・・どうか、今神様からこうして、贈り物を送られていること、それを受取って頂ければ…と思います。この『罪の救いセット』の中には、罪からの赦し、永遠の命、神様の愛が詰まっています。受けて、心の中に主を迎える時に、この罪の救いセットはあなたのものになります。ぜひ、受け取ってほしいと思います。