The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

とりなしておられる

それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
(ヘブル人への手紙 7:25 - 新共同訳聖書)

何故イエス様なのか?ということについては、特に神様と人間との関係を考えると、見えてくるのではないかと思います。
人間と神様との直接の交わりは、アダムの一件以降は常にある程度離れた位置関係だった上に、アブラハム以降は一部の選ばれた人間(預言者)を通してのみあらわれていました。イエス様の目的は、神様と人間の交わりの回復だったわけです。しかしながら、その間にはずっと大きい『人間の罪』という隔たりがあったわけです。
旧約聖書の時代にもそれはあったのですが、預言者や祭司のとりなしの上で、人間と神様の間が保たれていたということでした。預言者や祭司も人間なので、彼らが神様から離れてしまってはとりなしもうまくいくものではありません。事実、イエス様の時代には、祭司たちは神様から離れ、利益を求めるようになり、預言者ヨハネ)の言うことも聞かない状況であったわけです。そこで、復活のイエス様を祭司として据えることで、今もなお生き続けてとりなしてくださる方とされたわけです。
自分自身も、多少疑問に思うことがあります。なぜ『仲介者』が必要となるのか?という点です。そもそも、イエス様の目的は『神様と人間の交わりの回復』だったのではないでしょうか?回復していれば、当然ながら仲介者が必要となるのか?という点です。
しかしながら、人間はたとえ神様との交わりを回復しても、罪の属性は未だ消えず、また神様の恵みもほんのちょっとしか理解できないものであります。そんな状態で、父である神様と会ったらどんなことを言われるでしょうか。日本式頑固オヤジだとすれば、外に放り出されて勘当ものだと言われても仕方がない状況じゃないでしょうか。実に、神様は父であります。正しい父であるがゆえに、自分たちを厳しく叱咤しなければいけない方だということです。そこで、とりなしをして、お互いの望むことをよく見てくださる方…すなわちその方がイエス様…が必要だということです。しかも、イエス様は人間として、赤子として生まれて下さった上に、苦難を経験し、十字架で死なれても黄泉から復活してくださった方です。つまり、今なお生きていて、ずっととりなしをしてくださるという方であります。
ところで、イエス様が居ない関係はどういった関係なんでしょうか。離婚することが常となって、片親のみで育てられる子供が多くなってきた最近ですが、しかしながら人間は父と母、2人の人間によって育てられることになるわけです。唯一といっても、単一の存在である神様と自分のみの関係で育ったら、タテの関係は知ることができても、ヨコの関係、つまり、父と母との間の関係は知ることが出来ないでしょう。この関係こそ、自分とほかの人との間の関係ではないでしょうか。神様とイエス様の間の関係を見て、また、イエス様と弟子たちの関係を見て、愛を知るわけです。タテの関係の愛からヨコの関係の愛を見つけることは至難ですが、こうして主はすべてを見せてくださっているわけです。
聖霊様との関係も、まさしく神様と自分の関係は聖霊様と自分、教えられ、励まされ、父のような関係ではないかと自分は思っています。
そうすると、イエス様という方の存在意義はますます自分の中で重要なものであります。イエス様と神様、イエス様と私たち、この関係を見て、自分がすべき・見習わなければならない愛の業を分かるわけですから、そういった意味でも、神様と自分との間をとりなしてくださってると言えるのではないでしょうか。