The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

心の中

人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。
箴言 21:2 - 新共同訳聖書)

しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
(マタイ 5:28 - 新共同訳聖書)

エスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
(マタイ 9:4 - 新共同訳聖書)

だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
(マタイ 13:19 - 新共同訳聖書)

心の中を主が見ておられます。
この間、何かのコピペ(Pyaとか好きです(マテ))で、どこだったかのミッション系の学校の女子生徒が、髪を染めたりスカートを短くしたりといった、いわゆる学校での『素行不良』についてそこの先生(修道女の方?)が「イエス様がみてますよ」とか言ったらその女子生徒が「キャーイエス様、痴漢!」みたいな発言で思いっきり目を丸くしたみたいなコピペがあって、割とそこに書いていた人々が同意ボタンを押していたのに結構びっくりしたり。
外見とかじろじろ見るだけでも痴漢といわれるわけですから、心の中身とかをまじまじと見られたら相当な痴漢ですね(苦笑)。とはいえ、人間誰しも心の中身を世界中に大公開!なんて言われたら結構卒倒するくらい嫌な感じを覚えるのでは?と思います。主は心の中を見ておられるのです。
心の中を見られたからと言って、何か悪いことがあるのでしょうか?
悪いことといえば、当然自分自身の心の中で後ろめたいことではないかと思います。
恥ずかしい、苦い思い出、または今、それをしてたりすることはないでしょうか。
自分自身もあります(汗)。当然っちゃ当然でしょうけども。まぁ、それを今全世界に公開されるなんて言われると、自分自身もまだ隠そうとしている部分とか多いですから(汗
それでも、見ている存在が居るわけです。主は、その心に悪いことを思っている時に常に警告を発せられます。それが良心の呵責となって、良い方向に導かれればいいわけです。もしくは、悪いことをした時に返ってくる自分にとって悪い事象なんかは、別に当てつけで返ってくるわけではなく、主が良い方向に導こうとして、壁を作っているということでもあります。
皆さんはキリスト教、聖書の言葉、福音についてどう思っているでしょうか?良いものだと思っていますでしょうか?もしくは、それは悪いものだと…。
当然、いいか悪いかを判断するには、ちゃんと読んだり、話を聞いたりしてほしいものではあります(自分はそれを勧めます。信じるにしても信じないにしても)。その中で、それが悪いものだと感じるならばまぁ致し方ないかなぁと思う部分はありますが、『良いものだと思っていて、でも自分の生活が変わるのがいやだ』と考えている人が居たなら、それは非常に悲しいことだなぁと思います。
良いものなのに得ることができない。なぜか?自分の心が整っていないからですよね。こういった心を、主は見られているんだと思います。クリスチャンになったからと言って、全部が全部良い心か…というと違います。主のことを受け入れたものの、まだ悪い部分はぐっちゃりぐちゃぐちゃ残っているわけです。これら一つ一つ、悪い部分を主は制圧しようと心のなかで頑張っているわけですから、当然葛藤の一つや二つ、起こって当然なわけです。そうやって、『主によって変えられる』わけです。
これを良しとするかそうではないか。自分自身の狭い領域で判断すると、悪いように見えて当然なのかもしれませんが…、広い視点で見て『良いこと』、『正しいこと』を見ると、自分が悪かったことに気付くのでは。そして、その時初めてそれが恥だったと気付くのであれば…。
まぁ、日本人はとかく恥が出ることを嫌う『恥の文化』の中にいるので、そういったことが公に出るのを割と嫌いますが…自分は『変えられて生まれた恥』が晒されるのは全然苦にはならないと思っています。むしろ、自分が変えられた証として、誇るべきものなのかもしれないなぁと思います。