The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

祈ることをやめない

サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。
むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。
主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。
わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。
主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。
悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」
(サムエル上 12:20-25 - 新共同訳聖書)

祈ることとは一体どういうことなのでしょうか。また、どのように祈ることができるでしょうか。
日本なんかだと、祈り、祈祷というとどういったイメージがあるでしょうか。神主さんがバサッバサッとやっているのは、その土地の霊に対して。よくご冥福をお祈りしますとかなんかそういった感じでついてくる文言での祈りというのはおそらく死んだ人に対して。じゃぁ、就職活動とかで駄目だった場合とかは…?あれなんかもよく『祈られた』なんて言って、つまるところ「これからのご活躍をお祈りします」みたいな感じで。これはどこに対してお祈りしてるんでしょうかね。
祈るという言葉を、日本人は割と良く使うようなんですが、実際に祈っている人というのは見たことがなかったりします。柏手打って礼をしてそこでちょこっとお祈りして、おみくじ引いて・・・1年間で何時間お祈りしてるんでしょうかね。このような感じで、『お祈りする』と言って、祈るのは一瞬なんて人は多いのではないかと思います。
祈りとは実際どういうものなのでしょうか。宗教で欠かすことのできないものなんて思いもあるかもしれませんが、仏教は実は祈らないんですね(本願寺系は祈祷しないことをやめたような記事がどこかにあったんですが・・・)。願掛けという形で、望んでいることを表現することがあるそうですが。イスラム教はメッカに向かって1日3回とか5回とかお祈りするようです。敬虔なイスラム教の方もうちの大学に居て、絨毯を敷いて方位磁石を持ってメッカの方角は南東だから…とやっておりました。日本神道は参拝という形で祈ることになってますね。祈る=拝むことですから、その土地の霊に対してなんですが、殆どの人は何かしらの願掛け(五穀豊穣?とか安産祈願?とか)のようです。
キリスト教はと言いますと、神様にお祈りします。普通ですね(何)。
何をお祈りするかといいますと、本当にいろんな事をお祈りします。賛美、悔い改め、感謝、願い、その他諸々、本当に『神様とくっちゃべってる』ほどにお祈りします。その内容は実に様々で、今日の晩飯の予定から世界平和まで、ホントに満遍なくお祈りします。
しかしながら、基本は主の祈りだと思います。内容は、
・神様の御名があがめられるように
・神様の御国が来ますように
・神様の御心が天で行われるように地上でも行われますように
・私たちの日用の糧を今日も与えてください。
・私たちの罪を許してください(他の人が私に犯した罪を許したように)
・私たちを試みられずに、悪いことから救い出してください。
・国と力と栄とが、限りなく神様のものでありますように。
と、ここまで見ると、キリスト教のお祈りは『自分のこと』というよりは『神様のこと』が中心です。
勿論、自分のことも他の人のことも祈ることができます。むしろ、それが『神様の御心』であるということです。祈れば何でも叶えられるか?というと、神様がもっと良くなるように導いてくださるという意味では叶えられていると思います(とは言っても、宝くじが当たりますようにとかそんな感じにはならないだろうし)。
祈ることは本当に神様と自分との対話です。旧約聖書の時代では、特定の司祭たちのみが至聖所という、テントの中に区切られた神様と直接交わる場所があって、十戒の書かれた石板や、マナ、アロンの杖がそこにあって、そこに入る前には罪があってはいけないから一生懸命若い羊や雄牛を贖罪の生贄として、体を清めてからそこに入ってお祈りするしかなかったわけです。そうしないとすぐに死んでしまったそうです。そんな状態から、イエス様が十字架に架けられた時にその天幕は割かれ、主を信じる人が、『イエス様の名によって』罪が清められた状態で、いつでもどこでも主と祈りを通して交わりを持つことができるようになったわけです。
祈る人については、本当に多くの例と、彼らについて多くの奇跡があります(ここではひとつひとつは触れませんが、E.M.バウンズ師の祈りによる力(いのちのことば社)が参考になります)。また、他の人のために真摯に祈ることが、その人に対する愛を表現する一つにもなると思います。
では、どのように祈っていけるのか?ということについて。自分自身も、祈りの足りない人間です。自分の忙しさに、瞑想も、祈りも、聖句を暗記することも足りない人間ですが、一瞬一瞬、忙しくても『神様』と上を見上げることができればと思っています。その時々に必要な祈りもあります。日常の祈り、深い交わり、たまには1日中や1週間中ずっと交わりもしたいですし、それが出来ない弱い状態もあります。祈りのためのノートを作ったり、それのために多少機械的な祈りになってしまうこともあります。切迫した祈りもあります。それでも、『祈ることをやめない』ことが重要だと思います。やめてしまえば、神様との交わりが絶たれてしまいます。そうならないように、自分が弱くても、自分に責められる何かがあっても、『祈ることをやめない』必要があると思いました。

ところで、結城浩さん(あの数学ガールとか、Javaの本とか書いてる、かなり自分の中でヒーローなんですが)がクリスチャンだということは以前から知っていたんですが、主の祈りについてJavaで書いてらっしゃるということで…なんかよくわからんけどすごい(汗
http://www.hyuki.com/prayer/prayjava.html