The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

言葉の責任

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ 12:36,37 - 新共同訳聖書)

実際に法廷に立たされて見ると分かることなのかもしれないですが(自分自身はその場に居合わせたことは未だ無いので言及はできないですが)、裁判という場は本当に根掘り葉掘り聞きだされるそうで、ちょうど心の中の映像をスーパービジョンで白日の下に曝されると言ったような、そんな感じだということを以前聞いたことがあります。それは、原告であろうが被告であろうが同じことだそうなんですが、まぁ、最近話題に上っている相撲協会八百長疑惑ですか。裁判の一挙手一投足がこうしてテレビ越しにずっと見られているわけですから、納得できることかと思います。
主の裁きというのが旧約聖書中からずっと書かれているテーマの一つでもあるのですが、新約聖書では裁きの日・裁きの時という単語で綴られている箇所が10を超えます。
はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイ 10:15 - 新共同訳聖書)
しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。(マタイ 11:22 - 新共同訳聖書)
しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」(マタイ 11:24 - 新共同訳聖書)
ここで出てきているソドム、ゴモラティルス、シドンと言った町は、旧約聖書時代に主によって裁きを受けた地域と言われているところです。ソドム・ゴモラアブラハムの時代、ロトが逃げ込んだ土地であり、神を罵り、嘲るだけではなく、男色、姦淫と、現在でもちょっと…と思うようなことをやっていたようで、実際に裁きを受けた土地です。ティルス・シドンもフェニキア/古代レバノンの中核都市として、一時期非常に隆盛を誇った地域ですが、ダビデの時代には神に仕えたいとして仕えていたのに、イザヤの時代には離れて主を嘲り、結果としてマケドニアに滅ぼされ、バビロン捕囚、ローマ帝国へと、当時のイスラエル諸国と同じように裁かれたと言われる地域であります。
冒頭に見たように、裁判は実に根掘り葉掘りなわけです。それが、終わりの日に『人生について』裁きがあるとすれば、どうなるでしょうか。しかも、神様はすべてご存知である方です。言ってみれば、生まれる前から死んだ後まで、全てにおいてフィルムが回されているという状況です。Trueman Showなんて映画もあり、24なんていうテレビドラマもあるような時代ですから、容易に想像ができると思います。粗を探そうと思えばいくらでも探せる時代です。そんな時こそ、本当にぽろっと話したつまらない言葉ほど、自分に重くのしかかることはないかと思います。
もっとも、そんな状況で一番重要なのは何なのかと考えると、それをしないために常に気をつける…のもまぁ一つの方法ではあるのかもしれませんが、自分は裁かれる神様と互いに愛を持てるようになるのが一番なのでは?と思います。親子愛に置き換えて考えたとしても、子供がなにか悪いことをしたら叱るのは当たり前だとしても、親は子供のやったことに対して愛を持って許すでしょう。神様の立場もまさにそうだと思います。
そして、その交わりを回復してくださるのが、イエス様の十字架であるとすれば、本当にそれを信じて、主との交わりに戻ることではないかなぁと思います。自分で気をつけるというのも一つの手かもしれませんが、検察の無い裁判で、裁判官と敵対して過ごすか、裁判官と仲良くなっているのと、どちらがいいかというと、自分は裁判官である神様と仲良くなっていることがいいと思います。