The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

自分を与えようというお話。

多分、技術系の話は皆さんが一生懸命してくださることを思って、私は学生の皆さん、若しくはこのブログを見て下さっている皆さんに、ライフハック的な何かを、Aizu Advent Calendar 2013として書き出したいと思います。
皆さんは、どれだけ他の人と関わりを持っているでしょうか。特に会津大生の人に聞いてみたいです。どれほど周りに人が居て、彼らに関心を持っているでしょうか。きっと、AAC2013に書いている人々は、会津大生の中でも、比較的周囲との関わりが多い目の人で、自分の知識を高めつつ、かつアウトプットをきちんとする、と言う人がいると思います。
有名なライフハックの1つとして、『アウトプット』というキーワードがあります。これは、いくつかの意味がありあります。『共有』として、『告知』として、『関心の提示』として、はたまたこういったアウトプットの機会を通して『インプット』の場として…。ライフハックの基本は、自分が『得る事』、若しくは得る事を『効率化する』事です。意識の高い学生は、その辺をしっかり把握して、自分が相手に与えているように見えて、実は全て『自分が得るため』の行動として行っている訳です。この『アウトプット』も然り。自分に興味、関心のある分野の同好の志から、わらしべ長者のごとく、自分の知識や時間、才能を『支払い』、そして他の価値を得るというのが『アウトプット』と言うライフハックです。
さて、今日話したいと思うのは、この『アウトプット』ではありません。100%、自分が相手に仕え、相手の奴隷となる、『与える』と言う事についてです。これは、この世の物、この世の価値としての自分への得はありません。自分はただ与えるだけで、主人公ですらなく、ただひたすら相手が主人公である事を肯定し、自分は黒子となる事、これが『与える』事です。
この『与える』と言う事、当然ながら、ただ与えるだけでは、メリットはありません。自分が衰えていくだけです。しかしながら、もし相手をこの上なく『愛する』のならばどうでしょうか?その人がもっと良くなってほしい、もっと上に行くようになってほしい、もっと活躍してほしい、素晴らしくなってほしい、そういった人に、自分が貢献するとするならば、何をするべきでしょうか。それこそ、そのケースで最良の方法は『与える』と言う事です。
皆さんは、生まれた時に、誰一人として自分のみで生き残ることが出来なかったはずです。親からの愛情を一身に受け、親の時間、お金、仕事の成果、それらを全て『与え』られてきたはずです。時々、その見返りを要求する親が居るは居ますが…基本的には親は、子である皆さんが健やかに大きくなり、良く生きる存在となる事を願って与え続けます。時には、『試練』を与えたり、『苦悩』を与えたりすることもあります。それらは、あなたをもっと成長させて来たはずです。
私は、会津大において、学生達があまり市内に出ず、一般の方と交流を持つのが少なく、ひいては短大生や市内の女性と付き合ったりすることが少ない現状を見て、(自分自身もですが、)この『与える』と言う事に欠陥があるのでは?と思っています。
『与える』事は、興味を持つことです。時間を与える事で、その人がどのような事をしているか、その事柄が何を意味するのか、その場所で何を得られるのか、それを分かる事が出来ます。
『与える』事は、興味を持ってもらう事です。自分が興味を持っている事、関心のある事、面白いと思って続けている事、一緒にやる事です。
『与える』事は、共有する事です。同じ苦しみ、悩みを共有して、話すことです。時間を取って話すことです。コミュニケーションを続ける事です。
自分の良いものを『与える』事は、相手に害を与えません。プラスにならないケースはありますが、決してマイナスにはなりません。
自分の良いものを『与える』事は、相手を豊かにします。相手を称賛して、相手が満足するようになります。
『与える』事は、見返りを要求しません。何々をするからあげるのではなくて、自分が喜んで、相手に差し出すことです。逆に言えば、喜べなければ、差し出すことは難しいですね。
『与える』事は、即、相手のものとなります。相手の物にならない『与え』は、ブン投げているだけです。
この『与える』事は、決して難しい事ではありません。しかし、自分が『持ちたい』と思っていては、手放す事が出来ないでしょう。また、自分が満足していなければ、手放す事が出来ません。自分に余裕が無ければ、手放す事が出来ないでしょう。つまり、難しい事ではないが、それが簡単に出来る状況に居なければ、自身の中で非常に難しい問題となります。
『与える』事は、強制されて行う事ではありませんし、義務ではありません。お金持ちが、周りから見れば生きるのに十分すぎるお金を持っていたとしても、当人が先行きに不安を感じて居れば、お金を手放すことが出来ません。しかし、手放さなければ、死んでしまうものではありません。お金を手放して、与えて、仲間を得る事に喜びを持つか、お金を手放さずに、お金によって心の平安を得るかは、その人次第だという事でもあります。
会津大において、学生は、与えられるもの、準備出来ているものが少ないかもしれません。お金、知識、才能が足りないと思う人も多いと思います。時間については、勉強の為に必要と、忙しい忙しいと言って、色んな与える機会を潰していませんか?自分が得るために一生懸命時間と資源を使い、頑張って学生の内は溜めて、社会人になってから、と思っていると、社会人では時間は拘束され、お金や知識や才能が有り余って、誰かに与えたいと思っても出来る時間が無い、なんてことになる人が本当に多く居るようです。
皆さん、説教臭くて耳が痛いかもしれませんが、本来、物事に価値が与えられるのは、自分が持っているものではなく、『与えたもの』に対してです。詰まり、幾ら溜めても、使わなければ、『与え』なければ、価値になりません。そして、見返りを求めずに相手に与えたものは、100%相手の中で素晴らしい価値となります。価値を最大化するには、自分が相手に『与え』なければ達成しないものです。
最後に幾つか、聖書の聖句を紹介します。
わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです(テサロニケの信徒への手紙1 2:8)
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネによる福音書 15:13)
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。(ヨハネの手紙1 4:9)
神様が私達を愛して、私達が罪の為に死なないように、神様の独り子を与えて下さいました。これがイエスキリストであり、クリスマスで礼拝するべき方(Christos Masse - キリストのミサ)です。そして、このキリストが、私たちを愛するために、ご自身の命を、見返りなしに『与えて』下さいました。これが究極の『与える』ですね。
皆さんも、是非、『与える』生活を初めて見てはいかがでしょうか。皆様、『メリー・クリスマス』。I wish you a merry christmas! クリスマス、おめでとう!