The discretion of a man deferreth his anger

; and it is his glory to pass over a transgression (Prov. 19:11 KJV) - このブログは基本的に画像処理やRTMなど技術に関することを書き連ねていきます。

『修士論文の代わりに退学願を提出してきた"東大生に対するみんなの反応』に対する個人的見解

Togetterまとめ http://togetter.com/li/97940より、修士を卒業目前?でドロップアウト(と言う言い方もおかしいが)された方の記事とそれについて書かれた准教授の方の記事、及びその反応を見て思った事を色々と書き連ねて見る。この話…学部1年の入ってきたばっかりの人に聞かせたらどう思うんだろうね、とか思いつつ。
乱筆・乱文で非常に申し訳ないですが、自分の中にあったもやもやをざっと綴ったものです。
先ず、個人的にこの手の話がある事について、自分は全く驚かない。なぜならば、この手の話はずっと前から良く聞いた話だし、大学とは『そういう場所だ』と言う事を自分の中でも幾度となく感じ取って来たからだ。日本の大学の構造は知ってはいるが、それ以上に大学1年生のうちにM元教授(現在は他大学の教授)やC元准教授(現在は母国アメリカで教鞭を取っているらしい)から、又はO教授より、アメリカの大学について色々と話を聞いていたからだ。そういう意味で、自分の居る会津大学は、海外大学に近いカルチャーにも触れる事が出来るため、結果として先にそのことを自覚出来た、と言える。
それでも、それを自覚出来ない人も多い。言うなれば自分はそういった中の『特例』だったのかもしれない。研究者を目指して入学し、研究者を目指して博士後期まで来た、そして来年からはさらなる研鑽を目指して助教となる。だから、自分でこの大学で経験したことを一度纏めて、後輩達に胸を張って言えるようになりたい事も確か。
所で、これらの記事を読んでいて、幾つか引っかかる点がある。(そこからリンクされているさらなる幾つかの記事をも参照して。)それが多分『大学の在り方』と『個人の在り方』の2つの問題としてあるんじゃないかと思う。
『大学の在り方』として問題になっているのは、大学は「学問、研究の府」であるのか、「教育、学習機関」であるのかの問題。
立ち位置が前者であるならば、知識の学習等はあるにしろ、基本的に議論が主題となる。テーマに対して意見を持ち寄り、潰し合いながら議論により研鑽を積む。そこでの教授の立ち位置は、ツッコミ役であるか、若しくは議長であるかだろう。そこで持ち寄られた知識を元に、更に知識を深めるために新しい事を持ち寄る。この中では教授は絶対者ではなく、一専門家として関わる事になる。勿論、講義やセミナーを調整し、導き、最終到達目標まで到達したかを見極めるだけの責任は持ち得るだろうが、教えると言うよりは共に議論する立場と言えるだろうと思う。
立ち位置が後者であるならば、高校までと同じ様な扱いとなる。例示や講話を基に、手取り足取りある地点まで教えて行き、設定した到達目標まで来れるだろうと言うのを前提に護送船団的に学生を扱う。何より、前者と違うのは、前者は『研鑽』であるが、後者は『訓練』である。研鑽は自分で研ぎ澄ますのに対して、訓練とは受けるものである訳で、大学の勉強の在り方が主体的になるのか、受動的になるのかの差がある。
もう一つの問題、『個人の在り方』についても、大学は「社会の一部」と認識するか、「あくまで学生」と認識するかによって違いが相当出てくる。大学であるうちはミスに対してある程度寛容である事を前提としておいたとして、もし前者と認識するならば、自分が社会に対してどのような貢献をすべきかと言う事を考える必要が出る。当然、社会の一部であるわけだから、全く貢献しない、貢献したくないと考えるのは不自然であり、その場合は社会の構成員とは成ることが出来なくなる。
対して、後者と認識するならば、社会に対しての貢献はひとまず考えずに済む事になる。所謂『モラトリアム(猶予期間)』と言う事になるわけだが、そう考えてゆっくりと羽を休める事も、短い期間ではまま悪くは無い。しかし、そのまま4年ないし6年居てしまうのであれば、いきなり社会に放り出された時に、自分の居場所が無いと言う事に気付くのではないかと思う。
この東大生は、丁度この問題に対して、最初は「教育・学習機関」に「あくまで学生」として入り、次第に「学問・研究の府」の中で「社会の一部」である自分との間の葛藤があって、最後の最後で目覚めた(爆発した)のであろうと思う。
また、准教授の方の記事も、この2面性に対して、また、ここに関わる『社会的な要請』についても、非常に悩ましい事を挙げているんだなぁと思う。

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そうした事を前提にしたとして、果たして学生が、大学がどうあるべきか、と言うのも、もっと議論して確定して行かなければいけない部分でもある事は確かだと思う。そもそも、大学と言う組織では、大学だけで研究が完結している訳ではなく、大学でフルに研鑽を積んだ人間が社会の別な組織でその成果を出すと言う時点で、『大学よりも会社体の方が良いモノが出来る』と言うのはある意味で当たり前の事なのかもしれない。それでもなお、大学が研究機関として在るのは、『お金にならなくても重要な事』を時間と人員を掛けて研究出来る、と言うのは実際的であり、正しい事だと思う。それとまた同時に、そういった研究を通じて、学生が『研鑽を積む』事が必要であり、またその助走段階として、やはり大学も「教育・学習機関」という側面が必要だ、と言う事も事実なのである。
となれば、問題は結局『個人の在り方』に帰着するのではないか、と自分は考えている。詰まり、大学に来る時点(いや、もっと前からであってほしいが)で自分は『社会の一部』である認識を持ってほしいと考えている。これは、ただ『あくまで学生』であることを拒否している訳ではない。甘えるなと言うわけでもない。甘えは結構。ミスがあっても良い。但し、自分が社会の中で、何を主戦場とし、何に貢献するのか、と言う事を常々考えて頂きたい、と思う。その中で進むべき道が大学のカリキュラムと会わないのであれば、退学する事は決して間違ってはいないし、逆に合致するのであれば、邁進してもらいたいものだと思う。また、今それが分からなくとも、今自分が学んでいる事に精を出して貰えば、その中から道が分かると言う事もある。それを分かるように成るのにもやはり『社会の一部』であると言う自覚次第ではないかと思う。
教授職になる人間(自分含む)に対しても同じことが言えるだろう。真剣に学ぶ人間だろうが、そうでなかろうが、恐らく真剣に『教えよう』という態度で事に臨むだろう。彼が『社会の一部』となって、どこで花を咲かせるかは分からないが…その一端を担う事に非常に光栄に思う。出来るのならば、ちゃんと大学のカリキュラムを履修した上で、次のステップに移って貰いたい、と思うのが親心だろうと思う。そうでなくても、巣立った先で、繰り返し同じ苦しみを得る様な事は無いようにして欲しい、と願うだろうと思う。何せ、教授職になる人間にとってみれば、卒研であれ修士であれ博士であれ、期間がどうであれ『その人間の人生の一翼を担う』ことには変わりは無いのだ。

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来年度から大学の助教として教鞭を取る自分に対しても、本当に良く言い聞かせながら研究に、教育に心血を注いで生きたいと思う。勿論、人間付き合いとしても。良い研究も、良い教育も、人間付き合いが健全でなければ始まらなく、ある程度ゴールを共有しなければ共に研鑽は出来ない。出来得るならば、会う学生達全員が、個人の目標を共に語り合いながら、共に切磋琢磨して行くことが出来る事を望む。